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シドニー・ハーバート(英語版)(ペンブルック伯)戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼やる。11月、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かったちゅうわけや。せやけど、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかったちゅうわけや。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否したちゅうわけや。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいったちゅうわけや。しかし味方がいないわけではなかったちゅうわけや。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じたちゅうわけや。ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に張り出したちゅうわけや。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となってん。
スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転したちゅうわけや。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれたちゅうわけや。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来やる。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれたちゅうわけや。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようでやるちうわけや。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られるちうわけや。
ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転したちゅうわけや。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令したちゅうわけや。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明したちゅうわけや。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測されたちゅうわけや。
この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれるちうわけや。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだったちゅうわけや。最終的には、この部分を修正し、女王名の入った新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前であったちゅうわけや。
1856年3月30日パリで平和条約が締結されるちうわけや。4月29日クリミア戦争終結。7月16日病院の最後の患者が退院。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、8月6日スミスちゅう偽名を使用して人知れず帰国したちゅうわけや。11月帰国後ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出したちゅうわけや。
このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としておる。これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながったちゅうわけや。
ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかったちゅうわけや。せやけど、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかったちゅうわけや。
スクタリ病院の看護師の総責任者として活躍。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇(42%)したが、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転したちゅうわけや。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれたちゅうわけや。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来やる。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれたちゅうわけや。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようでやるちうわけや。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られるちうわけや。
ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転したちゅうわけや。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令したちゅうわけや。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明したちゅうわけや。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測されたちゅうわけや。
この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれるちうわけや。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだったちゅうわけや。最終的には、この部分を修正し、女王名の入った新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前であったちゅうわけや。
1856年3月30日パリで平和条約が締結されるちうわけや。4月29日クリミア戦争終結。7月16日病院の最後の患者が退院。ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、8月6日スミスちゅう偽名を使用して人知れず帰国したちゅうわけや。11月帰国後ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出したちゅうわけや。
このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としておる。これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながったちゅうわけや。
ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかったちゅうわけや。せやけど、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャルしか記すのを許さなかったちゅうわけや。
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フローレンス・ナイティンゲイル(Florence Nightingale, ナイタンゲイルとも、1820年5月12日 - 1910年8月13日)はイギリスの看護婦、社会起業家、統計学者、看護教育学者。近代看護教育の生みの親。病院建築でも非凡な才能を発揮したちゅうわけや。クリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名。
ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(英語版)とも親しく交流したちゅうわけや。
人物概要
裕福なジェントリの家庭である両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられるちうわけや。幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語(姉妹とも読み書き話しができた)、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)やらなんやらの外国語、ギリシア哲学(プラトン)・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説やらなんやらの文学)が施されるちうわけや。せやけど、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。
その後ブレスブリッジ夫妻ちゅう有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合ったちゅうわけや。帰国後、ハーバート夫人である、通称リズことエリザベス・ハーバートとも親しい交際が始まる。
ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするちゅう口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在やる。ここでは、看護婦に対しても教育が行われていたちゅうわけや。その後看護師を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職するが、ただし無給であったちゅうわけや。生活費は年間500ポンドかかったが数少ない理解者の父が出していたちゅうわけや。就職に反対する母、姉とは険悪となる。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であったちゅうわけや。
せやけど、1854年にクリミア戦争が勃発するって、ロンドンタイムスの特派員ウイリアム・ハワード・ラッセルにより、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを伝え始めるって、一気に世論は沸騰やる。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(英語版)とも親しく交流したちゅうわけや。
人物概要
裕福なジェントリの家庭である両親の2年間の新婚旅行中にトスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれ、フローレンス(フィレンツェの英語読み)と名づけられるちうわけや。幼少期は、贅の限りを尽くした教育(フランス語・ギリシャ語・イタリア語(姉妹とも読み書き話しができた)、ラテン語(聖書や哲学の勉強の基礎となるものとして学ぶ)やらなんやらの外国語、ギリシア哲学(プラトン)・数学・天文学・経済学・歴史(イギリス、外国)、美術、音楽、絵画、英語(英文法、作文)、地理、心理学、詩や小説やらなんやらの文学)が施されるちうわけや。せやけど、慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになる。
その後ブレスブリッジ夫妻ちゅう有名な旅行家の友人に連れ添われてローマに旅行に出掛ける。そしてローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと友人を介して知り合ったちゅうわけや。帰国後、ハーバート夫人である、通称リズことエリザベス・ハーバートとも親しい交際が始まる。
ナイチンゲールは精神を病んだ姉の看護をするちゅう口実で1851年、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在やる。ここでは、看護婦に対しても教育が行われていたちゅうわけや。その後看護師を志し、リズ・ハーバートに紹介されたロンドンの病院へ就職するが、ただし無給であったちゅうわけや。生活費は年間500ポンドかかったが数少ない理解者の父が出していたちゅうわけや。就職に反対する母、姉とは険悪となる。のちに婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴える。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代であったちゅうわけや。
せやけど、1854年にクリミア戦争が勃発するって、ロンドンタイムスの特派員ウイリアム・ハワード・ラッセルにより、クリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを伝え始めるって、一気に世論は沸騰やる。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
神の愛の宣教者会(かみのあいのせんきょうしゃかい、別名ミッショナリースオブチャリティ(英語: Missionaries of Charity))は、1950年10月7日に聖座の認可を受けて設立されたカトリックの女子修道会。「もっとも貧しい人々のために働くこと」を使命とやる。現在、133の国と地域で活動し、4500人以上の修道女がおる。
設立の経緯と活動
1946年9月10日、ロレト修道会のコルカタの聖マリア学院で裕福な子女たちを教えていたシスター・テレサ(後のマザー・テレサ)はコルカタからダージリンに向かう列車の中で、「もっとも貧しい人のために働くように」ちゅう神の招きを受ける体験をしたちゅうわけや。
1948年にローマ教皇から修道院を離れて暮らす許可を得るって、インド国内で医療訓練を終え、マザー・テレサは一人でコルカタの街に入ったちゅうわけや。そこで彼女は死に行く人々、誰からも見捨てられた人々の世話を始めたのでやるちうわけや。そんな彼女のもとへやってきて、その活動を助けたのはかつての教え子たちであったちゅうわけや。1950年10月7日に神の愛の宣教者修道女会は聖座の正式な認可を受けたちゅうわけや。最初の死を待つ人々の家は彼女を含めた12人のシスター達によって始まったちゅうわけや。
1965年のベネズエラを皮切りに、インド国外での活動を開始。日本やアメリカ合衆国を含め、全世界の国に活動が広がっておる。1963年には男子修道会である神の愛の宣教者兄弟会も創立されておる。
1990年にマザー・テレサは総長職の辞任を願っていたが、再任されたちゅうわけや。1997年3月13日、マザー・テレサの死の半年前に、シスター・ニルマラ・ジョシーが神の愛の宣教者会の新総長に選ばれたちゅうわけや。創立者のマザー・テレサは1997年9月に87歳で亡くなってん。なお、ニルマラは、「私達がマザーと呼ぶべき人はマザー・テレサただ一人」ちゅう理由により、総長職を継いだ後も「マザー」を名乗ることはなく、現在に至るまでずっと「シスター」を名乗り続けておる。
2007年9月5日には没後10年を記念し東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサが行われ、500人を超える参拝者が訪れ祈りを捧げたほか、バチカン大使館より教皇大使と参事官も共同司式で参加した。。
2010年8月26日にはマザー・テレサ生誕100周年を記念したミサ説教が東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われたちゅうわけや。
設立の経緯と活動
1946年9月10日、ロレト修道会のコルカタの聖マリア学院で裕福な子女たちを教えていたシスター・テレサ(後のマザー・テレサ)はコルカタからダージリンに向かう列車の中で、「もっとも貧しい人のために働くように」ちゅう神の招きを受ける体験をしたちゅうわけや。
1948年にローマ教皇から修道院を離れて暮らす許可を得るって、インド国内で医療訓練を終え、マザー・テレサは一人でコルカタの街に入ったちゅうわけや。そこで彼女は死に行く人々、誰からも見捨てられた人々の世話を始めたのでやるちうわけや。そんな彼女のもとへやってきて、その活動を助けたのはかつての教え子たちであったちゅうわけや。1950年10月7日に神の愛の宣教者修道女会は聖座の正式な認可を受けたちゅうわけや。最初の死を待つ人々の家は彼女を含めた12人のシスター達によって始まったちゅうわけや。
1965年のベネズエラを皮切りに、インド国外での活動を開始。日本やアメリカ合衆国を含め、全世界の国に活動が広がっておる。1963年には男子修道会である神の愛の宣教者兄弟会も創立されておる。
1990年にマザー・テレサは総長職の辞任を願っていたが、再任されたちゅうわけや。1997年3月13日、マザー・テレサの死の半年前に、シスター・ニルマラ・ジョシーが神の愛の宣教者会の新総長に選ばれたちゅうわけや。創立者のマザー・テレサは1997年9月に87歳で亡くなってん。なお、ニルマラは、「私達がマザーと呼ぶべき人はマザー・テレサただ一人」ちゅう理由により、総長職を継いだ後も「マザー」を名乗ることはなく、現在に至るまでずっと「シスター」を名乗り続けておる。
2007年9月5日には没後10年を記念し東京カテドラル聖マリア大聖堂でミサが行われ、500人を超える参拝者が訪れ祈りを捧げたほか、バチカン大使館より教皇大使と参事官も共同司式で参加した。。
2010年8月26日にはマザー・テレサ生誕100周年を記念したミサ説教が東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われたちゅうわけや。
聖女として
宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって国葬として盛大に行われたちゅうわけや。
インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女と2011年5月に死去したサティヤ・サイ・ババのみでやるちうわけや。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼したちゅうわけや。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなってん。
1997年、テレサの死後すみやかに列福・列聖調査がはじめられたちゅうわけや。
通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定なのやけど、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったことって、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、2005年4月に帰天した当のヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。
2003年10月19日、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言したちゅうわけや。
通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福ちゅうのは異例の早さである(さらに列聖には、場合によっては数百年の時間をかけて審査が行われることもやるちうわけや。福者は聖人の前段階)。
宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって国葬として盛大に行われたちゅうわけや。
インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女と2011年5月に死去したサティヤ・サイ・ババのみでやるちうわけや。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼したちゅうわけや。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなってん。
1997年、テレサの死後すみやかに列福・列聖調査がはじめられたちゅうわけや。
通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定なのやけど、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったことって、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、2005年4月に帰天した当のヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。
2003年10月19日、ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言したちゅうわけや。
通常は本人の死後、福者の認定を受けるまで少なくとも数十年の審査が必要とされている現状を考えれば、死後6年での列福ちゅうのは異例の早さである(さらに列聖には、場合によっては数百年の時間をかけて審査が行われることもやるちうわけや。福者は聖人の前段階)。
晩年と死
1983年、高齢のテレサはヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われたちゅうわけや。
1991年にはペースメーカーをつけたちゅうわけや。
この年、優れない健康状態を押して故郷・アルバニアに最初の支部を設立しておる。
これはテレサの念願であったちゅうわけや。また同年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を願い出たため全会員による無記名投票が行われたちゅうわけや。
結局賛成票を投じたのはテレサ本人だけであとはすべて反対であったため、彼女は総長に留任することを同意したちゅうわけや。
1997年4月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り8月にはマラリアに罹患したちゅうわけや。
すでに心臓の状態が悪化していたため、総長職は1997年3月に退いていたちゅうわけや。
1997年9月5日、世界が見守る中、テレサは87年の生涯を終えたちゅうわけや。
テレサが亡くなったとき「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていたちゅうわけや。
活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校やらなんやらでやるちうわけや。
1983年、高齢のテレサはヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われたちゅうわけや。
1991年にはペースメーカーをつけたちゅうわけや。
この年、優れない健康状態を押して故郷・アルバニアに最初の支部を設立しておる。
これはテレサの念願であったちゅうわけや。また同年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を願い出たため全会員による無記名投票が行われたちゅうわけや。
結局賛成票を投じたのはテレサ本人だけであとはすべて反対であったため、彼女は総長に留任することを同意したちゅうわけや。
1997年4月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り8月にはマラリアに罹患したちゅうわけや。
すでに心臓の状態が悪化していたため、総長職は1997年3月に退いていたちゅうわけや。
1997年9月5日、世界が見守る中、テレサは87年の生涯を終えたちゅうわけや。
テレサが亡くなったとき「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていたちゅうわけや。
活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校やらなんやらでやるちうわけや。
世界のマザー・テレサ
テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)や「神の愛の宣教者信徒会」やらなんやらが次々に設立されていったちゅうわけや。
1969年、アメリカ人のマルコム・マゲッリッジ(Malcolm Muggeridge)が撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』(Something Beautiful for God)および同名の書籍によってテレサの活動はアメリカのみならず、全世界で知られるようになってん。この作品の取材をする中でマゲッリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、後にカトリック教徒になっておる。
1971年、教皇・パウロ6世は自らが制定した勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。
これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディー賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞 (1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、アメリカ合衆国名誉市民(1996年)、議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal、1997年)、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けたちゅうわけや。
アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与でやるちうわけや。
こういった賞の中で最も有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。
テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと皮製のサンダルちゅう粗末な身なりで出席したちゅうわけや。賞金19万2000ドルは全てカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては、「私のための晩餐会は不要や。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望したちゅうわけや。
賞金を受け取った時、「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったちゅう。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであったちゅうわけや。「家に帰って家族を愛してあげてください」。
1982年にはテレサはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出しておる。
テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)や「神の愛の宣教者信徒会」やらなんやらが次々に設立されていったちゅうわけや。
1969年、アメリカ人のマルコム・マゲッリッジ(Malcolm Muggeridge)が撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』(Something Beautiful for God)および同名の書籍によってテレサの活動はアメリカのみならず、全世界で知られるようになってん。この作品の取材をする中でマゲッリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、後にカトリック教徒になっておる。
1971年、教皇・パウロ6世は自らが制定した勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。
これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディー賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞 (1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、アメリカ合衆国名誉市民(1996年)、議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal、1997年)、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けたちゅうわけや。
アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与でやるちうわけや。
こういった賞の中で最も有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。
テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと皮製のサンダルちゅう粗末な身なりで出席したちゅうわけや。賞金19万2000ドルは全てカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては、「私のための晩餐会は不要や。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望したちゅうわけや。
賞金を受け取った時、「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったちゅう。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであったちゅうわけや。「家に帰って家族を愛してあげてください」。
1982年にはテレサはイスラエルとパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出しておる。
神の愛の宣教者会の創立
1950年から修道会設立の許可を得たちゅうわけや。
これが「神の愛の宣教者会」でやるちうわけや。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであったちゅうわけや。
テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。
インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院をゆずりうけたテレサは「死を待つ人々の家」ちゅうホスピスを開設したちゅうわけや。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。
活動の初期の頃は、地元住民たちは、キリスト教に改宗させようとしているちゅう疑念を抱いていたちゅうわけや。せやけど、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対しては、その者の宗教で看取っていたちゅうわけや。
ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まったちゅうわけや。
1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになってん。さらに1965年以降、教皇・パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になってん。
インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米・ベネズエラであったちゅうわけや。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる。
1950年から修道会設立の許可を得たちゅうわけや。
これが「神の愛の宣教者会」でやるちうわけや。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであったちゅうわけや。
テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。
インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院をゆずりうけたテレサは「死を待つ人々の家」ちゅうホスピスを開設したちゅうわけや。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。
活動の初期の頃は、地元住民たちは、キリスト教に改宗させようとしているちゅう疑念を抱いていたちゅうわけや。せやけど、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対しては、その者の宗教で看取っていたちゅうわけや。
ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まったちゅうわけや。
1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになってん。さらに1965年以降、教皇・パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になってん。
インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米・ベネズエラであったちゅうわけや。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる。
カルカッタの修道女
マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、オスマン帝国領のコソボ州・ユスキュプ(現代のマケドニアのスコピエ)に生まれたちゅうわけや。
翌27日は彼女が洗礼を受けたキリスト教徒としての誕生日でやるちうわけや。母はアルバニア人のドラナ (Drana) であったが、父のニコル(Nikollë) は少数民族の(ルーマニア人と同系の)アルーマニア人の出身であったちゅうわけや。
父は実業家でアルバニア独立運動の闘士であったが急死(暗殺説もある)、彼女は3人の子供たちの末っ子であったちゅうわけや。両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒であったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であったちゅうわけや。
アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが小さいころから聡明な子で12歳の時には将来、インドで修道女として働きたいちゅう望みを持っていたといわれるちうわけや。
18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れアイルランド系の修道会であるロレト修道女会に入ってカルカッタ(現・コルカタ)へと赴くことになってん。
ロレト修道女会は女子教育を行う修道会であったちゅうわけや。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いたちゅうわけや。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであったちゅうわけや。この名前はリジューのテレーズからとっておる。1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになってん。
1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教えていたちゅうわけや。彼女は子供の頃から地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は、学院の女学生達の間で大変人気が有ったらしい。
1944年には校長に任命されておる。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていたちゅうわけや。彼女自身の言葉によると1946年、汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」ちゅう啓示を受けたちゅう。
彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたがバチカンの修道会管轄庁やらなんやらカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかったちゅうわけや。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していたちゅうわけや。
1948年、ようやく教皇・ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られたちゅうわけや。
テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていったちゅうわけや。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになってん。
やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。
マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、オスマン帝国領のコソボ州・ユスキュプ(現代のマケドニアのスコピエ)に生まれたちゅうわけや。
翌27日は彼女が洗礼を受けたキリスト教徒としての誕生日でやるちうわけや。母はアルバニア人のドラナ (Drana) であったが、父のニコル(Nikollë) は少数民族の(ルーマニア人と同系の)アルーマニア人の出身であったちゅうわけや。
父は実業家でアルバニア独立運動の闘士であったが急死(暗殺説もある)、彼女は3人の子供たちの末っ子であったちゅうわけや。両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒であったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であったちゅうわけや。
アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが小さいころから聡明な子で12歳の時には将来、インドで修道女として働きたいちゅう望みを持っていたといわれるちうわけや。
18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れアイルランド系の修道会であるロレト修道女会に入ってカルカッタ(現・コルカタ)へと赴くことになってん。
ロレト修道女会は女子教育を行う修道会であったちゅうわけや。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いたちゅうわけや。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであったちゅうわけや。この名前はリジューのテレーズからとっておる。1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになってん。
1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教えていたちゅうわけや。彼女は子供の頃から地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は、学院の女学生達の間で大変人気が有ったらしい。
1944年には校長に任命されておる。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていたちゅうわけや。彼女自身の言葉によると1946年、汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」ちゅう啓示を受けたちゅう。
彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたがバチカンの修道会管轄庁やらなんやらカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかったちゅうわけや。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していたちゅうわけや。
1948年、ようやく教皇・ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られたちゅうわけや。
テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていったちゅうわけや。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになってん。
やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。
マザー・テレサ(Mother Teresa、本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ (Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ (Agnesë Gonxhe Bojaxhiu)、1910年8月26日 -1997年9月5日)はカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者でやるちうわけや。
「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名でやるちうわけや。
カトリック教会の福者。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められておる。
生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞やらなんやら多くの賞を受けたちゅうわけや。
1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか7人しかいない)。
2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福されたちゅうわけや。
受賞・受章歴
1962年:マグサイサイ賞平和・国際理解部門
1971年:ヨハネ23世教皇平和賞
1972年:ジョン・F・ケネディ賞
1973年:テンプルトン賞
1975年:アルベルト・シュバイツアー賞
1979年:ノーベル平和賞
1980年:バーラ・ラトナ賞
1983年:優秀修道会賞
1985年:大統領自由勲章
1992年:ガウデイム・エト・スペス賞
1996年:アメリカ合衆国名誉市民
1997年:議会名誉黄金勲章
「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名でやるちうわけや。
カトリック教会の福者。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められておる。
生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞やらなんやら多くの賞を受けたちゅうわけや。
1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか7人しかいない)。
2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福されたちゅうわけや。
受賞・受章歴
1962年:マグサイサイ賞平和・国際理解部門
1971年:ヨハネ23世教皇平和賞
1972年:ジョン・F・ケネディ賞
1973年:テンプルトン賞
1975年:アルベルト・シュバイツアー賞
1979年:ノーベル平和賞
1980年:バーラ・ラトナ賞
1983年:優秀修道会賞
1985年:大統領自由勲章
1992年:ガウデイム・エト・スペス賞
1996年:アメリカ合衆国名誉市民
1997年:議会名誉黄金勲章
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